2011年8月11日木曜日

ミラノ珍道中。

またまたご無沙汰しております。

「この山を越えたら、来週はちょっとゆっくりできるぞ~」と自分に言い聞かせて山を越えては、翌週には次の山が現れる、の繰り返しで、しかも、同時にいくつものプロジェクトが進行して、忙殺されまくった6月。

そして勝手に「7月はいろんな人が夏休みをとり始めるから、ちょっと暇になるに違いない」と勘違いして、夜の集中フランス語講座などに登録して、ますます墓穴をほった7月。

終いには、疲れすぎて食欲なし子で、夕飯にアイスクリームなんか食べちゃって(むかし、母が、食欲がなくて何にも食べれないときは、アイスクリーム食べなさい、と言ったとか、言ってないとか)。

そして今、実は夏休みをとって日本に帰ってきているのですが、さきに、先々週のアホ話を。。。

**************************************

ストレスが溜まりに溜まって、これはいかん!というタイミングに、3連休があったので、急遽休日前の急遽木曜にミラノ行き特急電車のチケットを予約し、金曜の午後休をとって、電車に飛び乗り、イタリアへ逃避行しました。

ナムはチューリッヒから別の径路・国境を通ってミラノに到達するため、待ち合わせはミラノのドーモ(巨大な教会)の前に夜19時。こういうとロマンチックなようですが!その前日までいつものごとく喧嘩しながら旅程を決めてましたから、全然そんなんじゃないんです。。。( ̄-  ̄ )

さて、私の到着が17時半で、ナムは到着18時50分なので、仕方なく2時間1人でぷらぷらしてよう、と思っていたら(ちなみに私は1人でぷらぷらするのが、そもそも好きではない)、途中で携帯にナムからメッセージが。

「電車に乗り遅れたので、到着は21時になります・・・。ごめん・・・。」

「えっ?(怒)」

がっびーん。ミラノといえば、ショッピング。なんでしょうが、私はあまり買い物は好きではなく、しかも、翌週末には日本に一時帰国しようというわたし。買い物欲ゼロ。なおかつ、既に疲れきっているので、これから1人で4時間歩き回るかと思うと、がっくし。案の定、途中で疲れて、公園のベンチに座って、持ってきた仕事してました(だめ子)。

そして、やっとのやっとナムが到着(21時半)。こちらは既に足が棒。

ナムはミラノ2回目なんだけれど(前回は私の友人とサッカーの試合見に来てる)、そのときに「ニューズウェークに載った有名なパスタ屋さんがあって、そこのリングイニは絶品である」と別の友人Mさんから聞いていて、実際に食べたらまさに絶品だったというので、

「どうしても私もそこに行きたい!」

ということで、ナムの記憶を辿って歩く、歩く。でも、「たしか、こっち」という言葉を信じて歩けど歩けど、店がない。わたしは既に両足裏に豆。疲労困憊して、喧嘩しながら歩いた末に見つけた、電気の消えた店を指してナム

「あ、たぶん、あの店・・・。閉まってるね・・・。」

「。。。(怒)」

もう仕方ないので、念のために同僚に聞いておいた、ドーモからタクシーで5分行ったところにあるお勧めレストラン地帯、へ行くことに。しかし、夜道に空車タクシーが全然見つからず。「せめてドーモに戻ろう」とまたぶーぶー言いながら歩いて歩いて歩いて・・・・すると突然ナムが

「あ!あの店だ!あの店に違いない!Pizzeriaって書いてあるもん!」

「・・・いや、Pizzeriaってピザ屋って意味だから、どこのレストランにも書いてあるんだけど ・・・( ̄  ̄;) 」

「いや、絶対あの店だ!」

何せもう疲労困憊なので、半信半疑のまま、ナムについてお店に入ることに。そしてメニューを広げると、友人お勧めだった魚介のリングイニがそこに!オーダーしてみると、友人の描写そのまま!(お皿丸ごとがすっぽりパン生地で蓋されていて、そのままオーブンで焼かれて出てくる。パンの蓋をあけると魚介がいっぱい) もちろん味は超!!!!美味でした。

あまりに美味しくて、その後レストランというレストランでほぼ毎回リングイニを注文していた私でした(途中で2回ほど浮気して別のもの頼んだけれど、「やっぱリングイニだね♪」という結論に戻る単純夫婦)。

さて、アホ話はまだ続きます。

無事美味しい夕飯を食べて、次に目指すはホテル。ちなみに、事前に申しておくと、いつも旅行のときは、私がだいたいホテルもチケットも予約するんですが(ナムに任せて気に入らないのを予約されるのが嫌)、今回はあまりに忙しかったので「たまにはナムが全部手配してよ~」とお願いして、ナムが慣れないままにホテルを予約しといてくれのたでした(事前情報)。

で、着くと、それはホテルではなく、ユースでもなく、若者たちがたくさん部屋をシェアしているフラットで、その一部屋を恐らくホリデーに行ってる間貸してくれるというものらしい。よって、

-台所も共有(しかも、水もグラスも全然ない)
-シャワー・風呂も共有(大量のシャンプー類が乱雑されていて、洗濯物がたくさん乾してある)
-部屋のドアはちゃんと閉まらず(しかも台所に面しているので、やたら人が通る)
-部屋の鍵もなく
-部屋にあるのはベッドだけ

極めつけは・・・蒸し暑いので窓を開けて寝るんだけれど、すると超大量の蚊が!もちろん窓には網戸なし。結局その晩は蚊との戦いで、睡眠ゼロ。全身100個くらい刺され(うち6,7個は顔。蚊がぶんぶん煩いので、シーツに包まって寝て、息するために顔のところに穴空けてたら、そこを直撃されていた  ̄-  ̄ ))、撃沈。

朝5時に「もうだめ!こんなところにいる意味ない!ローマ行こう、ローマ。」ということになって、そのままローマに向かったのでした。

・・・ミラノ、見てないやん。

見たの、これだけ~(ドーモ)。



ミラノ旅行記でした。

2011年5月30日月曜日

勝負(いろいろな意味で。)

こんなん書いてる場合じゃないんですが・・・、こういうときに限って、現実逃避しちゃうYO。

今週、来週と4つ試験があって(ただいま、遠隔教育で2つ目の修士号取得中・・・涙)、ず~~~~っと勉強をさぼっていたダメ子さんは、1夜漬け、とは言わないけれど1ヶ月漬け中なのであります(偉い子は1年間こつこつ勉強しておくはず)。にも関わらず、こんな時に限って仕事は山のように溢れ続け、今週末なんか、勝手にバドミントンのトーナメントに申し込まれ、勝負の時なのであります(泣)。

でも仕方ないので、バドミントン、行ってきました、ジュネーブ・インターナショナル・トーナメント(棄権すると、罰金とられる・・・)。
私はもちろん、アマチュア・ランセンス無しの部。試合、となると、元来負けず嫌い故、やっぱり本気でやらない訳にはいかん、というわけで、前夜も試合直前の朝も、グーグルで「バドミントン 混合(と女子)ミックス 戦略」って検索しては、重要な戦略ポイントをメモメモして頭に叩き込み、Youtubeでプロの試合をじっくり見て、「ふむふむ、プロはこう動くわけね」と頭に動きを叩き込み。。

さらに試合の間は、毎回数時間の空きがあるので、体育館の横の公園の芝生に敷物敷いて、或いは体育館の隅っこに隠れて試験勉強して、また試合して、の繰り返し。ひょ~。

その結果、初めて混合ミックスで優勝したよっ。やた、やた。
思わずパートナー(同じ機関にお勤めのシニア)と抱き合っちゃったよ~。前回は2位で悔し涙を流したんだもの。
ライセンス無しの部だから、所詮アマチュアのアマチュアなんだけど(上手な人はみなさん、ライセンス持ってる)、俄然、バドミントン熱もモチベーションもますますあがり、コーチつけて、ライセンス取っちゃうか?と画策中。どんだけ本気でやるのか、わしら。

ちなみに今回の賞品は、メダルとYONEXタオルでした(しょぼい。前回はバド用Tシャツ&スカートだったの。サイズがでかくて、人にあげちゃったけど)。

ここんとこ、運動も忙しさにかまけてさぼり気味だったのですが、打ちまくって、走りまくって、ストレスもばっちり解消されたぜよ。結果的に参加してよかったです。やっぱり、どんなに忙しくても、運動は必須だね。

あとちょっと、試験勉強もがんばるろー。終りは必ず来るのだー。部屋がすごいことになってるけど、試験終わるまで目をつむろ~(ちがう)。

2011年5月15日日曜日

マラウィとジンバブエ。

マラウィーからジンバブエへ移動してきました(出張です)。

マラウィーを訪れるのは初めてだったのですが、空港からホテルまでの風景は、まるでナショナルパークの中を走り抜けているよう。街中も緑あふれ、高層ビルなどないし、車もあんまり走ってないし(最近のアフリカ諸国の大都市は、渋滞がえらいこっちゃなので。)、延々と広がる緑と遥か彼方に見える山々に心癒されました。最近わたくしは疲れているようで(歳をとったとも言う)、時間があれば、できる限り自然回帰したい傾向がありまして、「あ~、天国だ」と思ってしまいました(実際に、マラウィー人の同僚が「あや、きみはパラダイスに行くんだね」と行って見送ってくれたのでした)。

Lilongwe空港から町までの風景。さすがに町には建物ありますが、20時頃出かけたら(1人じゃないよ)、人っ子一人いないし、車もゼロで、街灯もほとんど無くて、星がいっぱい見えました。



一方のハラレの風景。大きな違い。どこのヨーロッパの都市に来たかと思ったよ。



マラウィーがイギリスから独立したのは1964年。それ以来一党制支配が30年以上続いたマラウィーでは、国民が徹底的に抑圧されて、女性はズボンもミニスカートも禁止だわ、男性は長髪禁止だわ、テレビも所有できないわ・・・で、いつしか世界の最貧国の1つに転落してしまったと。一方のハラレは1980年まで長々と、ローデシア(白人が実質支配していたザンビア+ジンバブエ)の首都Salisburyとして発展し続けたというわけらしい。早くに独立できたほうが良かったのか悪かったのか。

でも、そんなLilongweでも、ご飯は美味しいし(米とティラピアの組み合わせ。もう言うことありません。)、いまやなんと水道水が飲めちゃうし。某統計データによれば、都市部のTreatment water coverageは95%以上!(世銀が90年代後半に上水処理場建設に投資している模様) そんな「途上国」ありますか?下痢ぴーぴーで仕事にならないとまずいので、迷った末(迷うな)チャレンジしませんでしたが、まぁ実際には、シャワーの水から塩素臭がかすかにする気がしたので、やっぱり飲まなくて正解だったかもね。。。( ̄▽ ̄;) でも人々もほがらかで、同僚ケニア人が「夢の国だわ。もうナイロビの生活に疲れたから、あたしはここ移住するわ。仕事さがそ。」と言ってました。



ところで、ジュネーブからここまで、大変な長旅でした。アディスアベベで乗り継ぎだったのですが、アディスからLilongweまでのフライトには、アフリカ人もおれば、インド人も中国人も大量にいるし、もちろん白人もいるし、イエメンから来た、という青年たちもいました。「いま、イエメンの状況はどうなの?テレビじゃ紛争で大変そうだけど」と言ったら、「え?テレビを信じちゃいけないよ。僕はSana’aからカイロまで普通に旅してきたけれど、まったく紛争なんかなくて、平和そのものだったよ。テレビで映しているのは、ほんの一部だよ。」と言っていました。人懐っこくて可愛らしい青年たちでした。

中国人たちは一切英語が話せず(だから、フライトアテンダントとコミュニケーション取れない)、99%男性なのですが、年齢もそれほど若くない。40代以上でしょうか。家族から離れ離れで、未知の遠い遠い果て、マラウィーまで送られて、きっともらえるお給料も微々たるもので(現地人を雇わずに中国人を大量に送ってきたほうが安い、というあたり、いかほどかと。。。ま、中国人を使うのは賃金だけの問題ではないんでしょうが)。まさにChinese soldiers。人権って。。。複雑な気持ちで彼らを見守ってしまったよ。

とにかく、いまやアフリカどこに行っても、中国人が大量におります。建設中の道路やら空港やらホテルやら、ほとんどは中国企業によって建設されていると言っても過言ではありません。Lilongweでも、中国企業が、霞ヶ関(マラウィーの)のまん前に超巨大なコンフェレンスセンターと5つ星ホテルを建設中でした。これまで、アフリカ人の中で、これら中国人の評判はすこぶる悪いと思っていましたが(現地人労働者の扱いがひどいとか。時々、建設現場で暴動が起こったりしているよう。中国人をあえて送りこんでくるのは、文句言わずに働くから、という理由もあるのでしょう。それから、現地人を雇わないし、資材もなんでもかんでも中国から激安のものを運んでくるので、現地で雇用機会がそれほど増えず、お金も落とさない。現地の商売がつぶされる、などなど)、今回一緒に仕事をしているケニア人は

「いやいや、むしろ中国人がどしどし、インフラを整備してくれるから、本当に助かるわ。これで、発展の土台ができる。」

と言っていました。ちなみに彼女いわく、

「中国人は、刑務所に入れられていた囚人を労働者としてアフリカに送ってくるんだよ。その中国人たちが最近、現地のアフリカ人女性たちと子供をつくって、でも、時期がきたらその労働者たちは中国に連れ戻されちゃうから、父無し子が増えて、さらに女性たちのほうに『あなたの子供の父親は誰?』って聞いても『中国人はみんな同じ顔に見えるから、分からないわ。名前はチンチン(中国語が発音できない・・・)。』ってみんなが答えるの。新たな社会問題よー」

って爆笑してました。労働者として送られてくるのはみんな囚人、というのには私は懐疑的ですが、そもそも笑い事か。( ̄▽ ̄;) アフリカ企業、負けないで頑張ってちょうだいよ。

Lilongweからヨハネスブルクへの飛行機の中では、めずらしく中国人(風)ファミリーを見ました。家族でマラウィーに商売しに行ってるのかもな、と思ってたら、途中で中国語で話しかけられ、聞いたら、台湾人とのことでした。そういえば、オフィスのドライバーが、

「マラウィーに最初に入植してきたのは台湾人なんだけど、台湾人はいつしか去って、それから中国人が入ってきたんだ。まぁ、中国人も台湾人も同じだけどね。ははは」(台湾人が聞いたら怒るでしょう)

って言ってたので、まだ残っておられる台湾人ファミリーだったのかもね。

アフリカと中国人、今後の発展と交わり、いつも興味深く眺めています。なにせ、どこにいっても「よーチャイナ!」って話かけられるんだもの。昨日も機内で隣に座ったマラウィー人に「おっ、中国語を教えてね♪」って嬉しそうに言われたよ。

2011年5月2日月曜日

マンションだけど、家庭菜園。

約束どおり、ナム氏が我が家のベランダ(しつこいようですが、一戸建てではなくマンションです)に庭を造りました。

DIYショップでおもーい、おもーい、ブロックと土をたくさん買って。そもそも、なんでそんな大胆なことになったかと言いますと、ナムが以前から、空いた段ボール箱にビニール敷いて、自分の菜園を作っていたのですが、あまりにも見た目がきれいじゃない、と、私がアピールしたことによります。

これ、ダンボール菜園。



これ、新しい菜園。1週間前。



これ、今週末。確実に緑、増えてます。すごい成長率。



植えてあるの、9割野菜ですので、まさに家庭菜園です。予想以上に安くない投資になってしまったので、これからはどんどん野菜を作って、自給していきたいです。夢は、お友達の家にお呼ばれしたときの手土産が、チョコレートやワインじゃなくて、自家製野菜。素敵でしょう!まずは、レタス君とネギ君、頑張れよ。コリアンダーもあふれんばかりに育っています。

サボテンすら枯らすことで有名なズボラはわたくしですが、意外にも嬉しくって、ナム氏と2人して、何度も何度も『庭』を眺めています。ナムは、本当に1時間おきくらいに、窓の傍に立って、庭を眺めています。

先日は天気がよかったので、2人でこの狭いベランダにゴザを敷いて、おにぎり食べてピクニックしました。菜園を眺めながら・・・。その日は意外にも風が冷たくて、すぐに部屋の中に逃げ戻ったのですが(アホ)。

プランターも買ったので、もっと土を買って、お花も植えたいです。

ではでは。

2011年4月24日日曜日

おじいちゃん、ありがとう。

おじいちゃんが他界した。

金曜日からイースターホリデーの4日連休が始まった。今回はとくに旅行などせず、家で本読んだり、DVD見たり、勉強したりして、ゆっくり楽しもう、と決めていた。

昨日の朝、買い物に出る前に、MSNメッセージャーで弟から「聞いた?」って一言メッセージが入ってた。「なにを?」って聞いても弟はいない。
なんだろな~、と思いながら、特に気にせずに家を出て、1日中、あちこちを買い物して回った。休日のご馳走つくるために、魚を買いに行ったり、ナム氏が「庭をつくる」(ちなみに、うちはマンションです)と決めたので、ガーデニングショップへ行ったり。

夕方家に戻って、米を研ぎながら、弟からの「聞いた?」のメッセージのことをもう一度考えてた。そして、「はっ」と嫌な予感がした。急いでPCを開いた。そこには弟から、祖父が他界し、両親弟ともに鳥取に飛び、お通夜を済ませ、翌日の朝10時から葬式、納骨であると説明するメッセージがあった。

わたしとこのおじいちゃんの間には、深いつながりがあった。
私は、初孫であることもあり、誰よりも愛がってもらった。例え東京にいようが、海外にいようが、毎年鳥取に帰省しているのは、家族の中でも孫の中でも私くらいだ。私の両親がよく「おじいちゃんは、やじま あや応援団長」と言っていた。私に何かあると、じいちゃんがテレパシーを感じて、私に連絡してくることもあった。ナム氏と籍を入れることを最後の最後に父親から反対され(正確には、延期することを勧められ)、今世紀最大の大喧嘩をして、わたしが引き篭もったときには、誰よりも心配して、歳を取ってからは、どんなに誘っても鳥取から外に出ようとしなかったじいちゃんが、「いますぐに東京にいく」と出かけようとしてくれ、父親も説得してくれた。

よく父親が、わたしとじいちゃんの関係を見て「祖父母と孫っていうのは不思議なもんだ。親子とは比較にならない深い絆で結ばれてる」みたいなことを言った。本当にそうだと思った。

おじいちゃんは、数ヶ月前に家の階段から落っこちて、大怪我をした。それまで、「ここ数年、ちょっとぼけてきてる」と言われていたのが、その機会に検査をしたら、パーキンソン病であることが分かった。ぼけているのではなく、筋肉が上手く働かなかったんだ。それ以来、ちゃんと正しい薬を飲むようになって、さすがに歳が歳だから、ぴんぴんにはならないけれど、元気になったと聞いていた。私も心配で、ジュネーブからちょくちょく電話を入れていた。

ちょうど3日前に、別件で父親とメールをやり取りしていたときに、いつものように「ところで、おじいちゃんは元気にしてますか?」って聞いたら、父の返事は「鳥取の爺さんはクスリが効いて、量も増やせるようになったので元気です(パーキンソン病と気づかずボケていると言われていた頃よりはるかに元気になっているようです)。やはり色々調べて病院を変えたのが良かった。」だったので、安心してた。実際、1週間前に本人と電話で話したら、元気そうだったという。

2日前、弟とチャットしていて、私が「人生をあと10年と思って意思決定すると、本当に今やらなくちゃいけないのが何か、見えてくる(って某ブログで言ってた)」って言ったら、弟が「俺は、人生60歳まで(それ以降は第二の人生を楽しむ)、って思って考えたらさ、60歳まであと28年しかなくて、1年はあっという間だから、例えば1年に1回旅行いっても、もう28箇所にしか行けないんだよね」って言ってて。昨日の朝(今思えば、そのとき既に、おじいちゃんは他界してた)、ナム氏のその話をして「そうしたらさ、わたし、毎年1回日本帰国しても、おじいちゃんにはもう数回しか会えないね。だから、ちゃんと帰国しなくちゃ。」って話してたところ。

じいちゃんにもう会えない、顔を見られない、話ができない、という悲しみが津波のように押し寄せては引いた。これまでの人生で、おじいちゃんからたくさんの手紙をもらった。おじいちゃんがあんなに手紙を出した相手もわたしくらいだろうと思う。いや、私が唯一の文通相手だったかもしれない。でも、もうおじいちゃんから手紙を受け取ることはない。風呂でひとり泣いた。でも、普段から私とじいちゃんは離れていて、でもテレパシーで繋がっている、という安心感があるのは、じいちゃんが他界してからも変らない。むしろ、じいちゃんが、これからは鳥取じゃなくて、守護霊のように私の傍で守ってくれるんだ、そう思うことにした。This is life. Life goes on. また、敬虔な仏教徒であるおじいちゃんの影響で、私は輪廻転生を強く信じているので、次にまたおじいちゃんの魂が私の周りに生まれ変わってくる、という確信すらある。

スイスに持ってきた、おじいちゃんから譲り受けた本たち。



改めて中を覗くと、おじいちゃんの手書きのメッセージや線がびっしりで、泣けた。



でも、後悔は残った。もっと、おじいちゃんの若い頃の話、戦争の話、大学時代の話、いろいろ聞いて置けばよかった。一度くらいは那須へ連れてきてあげればよかった(そういう計画もあった)。もっとスイスの写真を送って、もっともっと手紙を書けばよかった。全ては後の祭り。

急いでチケットを取ったら、納骨に間に合うかも、と思って調べたけれど、全然間に合わなかった。急いでも、東京に到着するのが2日後、そこからさらに鳥取。なので帰国はあきらめた。納骨に間に合わないなら、むしろ、初盆にゆっくり帰ろう。海外に住む、というのはこういうことだ。緊急事態に、すぐに戻れないということを覚悟すること。どうしても1日以上のロスがでてしまう。

夜中まで待って、日本時間の朝6時半に弟の携帯に電話した。弟が説明してくれた。じいちゃんは、この3日間、おしゃべりしながら寝ちゃったりはしてたけど、特に変化はなく、昨日の夜中、寝ている間に逝っちゃったと。とても安らかに眠ってたと。本人は、自分がパーキンソン病だったことは知らない。最後まで平穏に生活して、苦しまずに逝った(らしい)、と聞いてほっとした。頼むから、そうであって。

弟に、形見をもらってきて、と頼んだ。おじいちゃんが大好きだった碁石をもらってきてやる、と言われた。「じゃ、碁石でピアスつくって、両耳につけてよっかな」2人で笑った。位牌でもいいよ、と言ったら、びびられた。おじいちゃんが所蔵している大量の書籍も、きっと誰も欲しがらないから、売るんなら私が引き取る、と言っといた。どこに所蔵するかが問題だけど。本当に大量だけど、おじいちゃんが読んできたものを、全部読みたい。

おじいちゃん、これまでありがとう。おじいちゃんのおかげで、今のわたしがあります。
おじいちゃんが傍で見ていると思って、これからますます、おじいちゃんの名に恥じぬよう、生きていきます。そして、今残っている人たちに対しては、後悔のないように生きる。それが、私の昨日の新たな決心。

2011年4月17日日曜日

Pray for Japanでハーフマラソン。

拝啓、みなさまご無沙汰しています。私は元気です。

今月は会議と発表に追われています。

我が部署は、現在17の熱帯病対策を扱っています。昨今では、諸所の対策の中でIntegrateできるところはできる限りIntegrateしよう、という動きに向かっているのですが、それでも根本的は伝播対策は、疾患(というより、原因となる寄生虫・病原体)によって異なるし、研究者も違うので、HIVエイズやらマラリアやらのように1つの部署で1つの疾患を扱っている多くの部署と違って、どうしても部局で企画するテクニカル会議の数が多くなります(っていうことに気づいてしまった今日この頃)。そんなテクニカル会議が今月は目白押し。そんでもって、私は疾患対策全てにCross-cuttingなタスクに携わっているので、結果として4つのテクニカル会議で発表するはめに 。゚(゚´Д`゚)゚。。

プレゼン作るのは嫌いじゃなく(発表するのは全然好きじゃないけど)、カオスとしてある様々な事実たちを、うまく美しい1つのストーリーに繋ぎ合わせて、聴衆の心にメッセージをびびっと響かせる、というタスクに、いつもExciteしてしまう質なので、目をしばしばさせつつ、急激に(なぜか右目だけの)視力を低下させつつ張り切った結果、プレゼンたちが思いがけず大ボスや、大大ボス(Director)に大賞賛された\(´∀`)丿。でも浮かれたのもつかの間、来週月曜の会議で発表してくるように部長命令が出た げげっ( ̄□ ̄;)!!

そんな中で、某会議をすーーーっと途中で逃げまして、週末にかけて飛行機でぴゅーっとプラハに飛びまして、参加してきました・・・プラハハーフマラソン Σ( ̄ε ̄;|||・・・。
「プレイフォージャパン」というメッセージつきの手作り日の丸をTシャツにつけて、完走しました。



実は、これは人生で2回目のハーフマラソンで、1回目(多摩川のチャリティーマラソン、数年前)は10キロ過ぎたところから、足の痛みと豆で全然走れず、ひたすら足を引きずってゴールにたどり着いた、という苦い苦い経験があったのですが、今回はちゃんと練習を重ね、数週間前に一度練習で20キロ近く走っていたこともあり、なんとか完走できました。といっても、本当に本当に辛かったけど!

普段、5キロジョギングするときは、MP3プレーヤーに、勉強を兼ねたオーディオブックを入れて聞きながら走っているのですが、今回も音楽なし、「人類と文明の進化」みたいな小難しいオーディオブックだけを入れていったら、15キロを超えると、もはや脳みそは働かず、全ては雑音にしか聞こえず、言ってること一切理解できず、大変苦しかったです。マラソンには、やっぱり音楽が良いようです。。。

それから、今回は給水所が5キロ置きにしかなく、しかし気温は24度くらいにまで上がっていたので、喉からからで死にそうでした。でも「被災地にいる人たちの苦しみはこんなんじゃないんだ。私の、喉からから、はあとちょっとで終わるんだから」と自分に言い聞かせてました。

やっとこさ給水所につくと、用意が遅くて、コップに全然まだ水が入ってなくて、まさに死にそうな人たちで奪い合いでした。人間というものは、飢餓状態になると、「譲り合い」の精神はなくなり(つまり理性働かず)、まずは自分の腹を満たす(=喉を潤す)ことが最優先となる、というのがよく分かりました。

そして最後の3キロは、冗談じゃなく、「I can do it, I can do it, I can ...」と念仏のように、アホのように、唱えていました。あ~、辛かった。でも、またやりたい。なんか、出産もこんな感じなのかな~とか想像しています。うーーー、痛い、でも、また産みたい!ってみんな言うよね・・・。

あと、途中にトイレが全然なかったので、男性人は川沿いを数メートル置きにたって、立ちしょんしてました(ずーっと川沿いを走ったの)。でも、男性人用に面白いトイレがあった。黒い蓋を開けて、そこに挿入するものを挿入して、用を足す(小のみ、もちろん)という。先輩が実践してくれましたが(苦笑)、これを街中で見るのはなんとも不思議なものでした。でも、いいアイデアかも。公衆便所のかわりに、どう?これ。



今回は、同じ機関で働く先輩たちとチームで走ったのですが(と、ナム氏も)、ロシア人の同僚から、「チェコと行ったら世界最高のビールと、豚のグリルでしょ!」と言われていたので、その教えに従いました。豚の丸焼きは本当に有名なようで、街中にもこんなん。漫画に出てくる原始人が骨を手で持ってかぶりついてる、みたいな肉を食べるのが、子供のときの夢でしたが、これがプラハで実現するとは夢にも思っていませんでした。



実際に食べたのはこれ。



マラソンの翌日、筋肉痛と疲労でロボットのように歩きながら(ナムは両足の大きな豆をかばいつつ・・・)、一応観光もしたのですが、これがまた辛かった・・・・。なぜなら、アホな私たちは、ホテルをチェックアウトしたあと、スーツケースを抱えて観光に出かけたのですが(泊まってたのがホテルじゃなくて、サービスアパートメントだったので、荷物を預けるレセプションがなかった)、プラハの観光地帯は9割石畳かつひたすら坂道なので、スーツケースゴロゴロするのが辛いこと、辛いこと。そんなんしてるのは、わしら2人だけで、みんなに見られて恥ずかしいし・・・。観光がいまいち楽しめませんでした。

プラハでは、スーツケースは預けて観光するように。しかも、できればマラソンの前に。







そうそう、プラハには、木でできた玩具がたくさんたくさん売っててね。
このカエル2兄弟。頭にバネがついてて、上からつるしたら、びよよよーんって伸びるんだけど、あ~たまらん可愛らしさ。



この鳥は、上から吊るして、おなかから垂れ下がってる紐をひっぱると、羽を優雅に羽ばたかせて飛ぶの!その優雅さがたまらんですよ。吊るす場所がないので、ナムがこれまた兄弟?夫婦?を上下に吊るしてみました。



そんなこんなで、辛くも充実感あふれるプラハの春、じゃなくて週末、を過ごすことができました。

ハーフマラソン、またやりたいです。いつかはフルにも挑戦でっきるっかな~。

2011年3月25日金曜日

できることをやる。

怒涛のような出張から戻った翌日、新たな怒涛の日々が始まった。母国の地震、津波、原発事故・・・。

日本の外にいる人間にできることは限られているかもしれないけれど、ここにいるからこそできることもある。
できることを、できる人がやる。できる人は、できない人の分までやる。日本は大丈夫。

WHO西太平洋地域事務所が毎日挙げているSituation Report(英語)を、本部の日本人スタッフの有志で毎日翻訳しています。日本語版(仮訳)は、WHO神戸センターのウェブサイトに掲載されています。

英語バージョン
http://www.wpro.who.int/media_centre/jpn_earthquake/sitrep.htm

日本語バージョン
http://www.who.or.jp/sitrepsj.html

状況が正常化して、Situation Reportのデイリーアップデートの必要がなくなる日がくることを、ただただ祈って。