2010年1月30日土曜日

ミャンマーで骨董品

私はこれまで、骨董品に興味を持ったことのない人間でした。そもそもそんなに買い物すきじゃないしなぁ。ウィンドーショッピングとか飽きちゃうの。比較的移動の多い人生なせいか、できるだけ次の移動のために荷物を増やしたくないなぁ、っていう心理が多分に関わっているものと自分では思ってます。

そこへ変化が。

今回のミャンマー出張は、同僚A(イタリア人)と一緒でした。この同僚、正確には先輩。私と同じ寄生虫対策を専門に、同じグループで仕事していて、平均年齢の高ーい我が機関において数少なーい同世代(Aが私の2歳上)。彼は3年前に私の現ポストに入り、彼が昇進したと同時に、私がそのポストに入った、という関係でして。いつも一緒で、周りから兄妹のようだと言われ、もちろん仕事もできる男なのでとても尊敬しているし(変人だけど)、何でも1番に相談できる貴重な先輩です。

そんな彼、歴史大好き、異文化大好き、骨董品大好き。時間があれば、タクシー飛ばして、ヤンゴン市内のアンティークショップへ行くもんで、私も毎日お供していたわけですが、毎日のようにアンティーク物を物色しているうちに、私もだんだんとアンティーク物に興味が・・・(苦笑)。面白いのよ~。骨董品から文化が見えてくるということを初めて学んだです。

ミャンマーは漆工芸が有名らしく(行くまで知りませんでした・・・)、金馬漆器いうとても美しい漆塗りの容器を、あちらこちらで見かけました。千利休が使っていた茶箱も金馬漆器だったとか。特にかぼちゃ型の入れ物がとても可愛らしく、先輩Aがあちらこちらのアンティークショップで買い集めているのをいつも見てた私。最終的に自分もかぼちゃさんに惹かれてしまい、最終日空港へ行く途中でアンティークショップに寄って、自分も買っちゃいました。





これは昔の煙草入れだって。



これはなんと・・・第2次世界大戦中にミャンマーに駐屯していた日本兵の刀らしい。包帯でぐるぐる巻きにしてあるのが、なんとも痛ましく。思わず購入してしまった。だって、私のじいちゃんのかもしれん。じいちゃんの友達のかもしれん・・・。いつか日本に私が持って帰って奉納してあげます、という思いで。



でも、買った後に「この刀は人を殺してるかもしれない・・」とか思ったら、なんだか怖くなっちゃって、次の日本一時帰国までスーツケースに忍ばせています・・・。

ちなみに、これら、ぜーんぶ安かったです。どれも2000円以下。じゃなかったら、私が買うわけない(笑)。


ところで、骨董品屋さんを回ってつくづく感じたのが、ミャンマーの伝統工芸の精巧さ。完成度の高さ。すごいよ、ミャンマー。かつてはビルマ王朝として経済的にも文化的にも大いに栄えた国。

そして日本を思うのです。日本人の文化レベルとモラルの高さ。『日本人』として世界から集めている信頼。たとえ経済が危機に陥って、経済規模が縮小されても、日本は『日本』のクオリティーを下げてはいけないなぁ、と。

2010年1月26日火曜日

ミャンマーから戻りました。

ヤンゴンは緑がとても多く、市内あちらこちらに黄金のとっても大きなお寺のストゥーパがにょきにょきと建っていて、それが夜になるとイルミネ―トされて、とても幻想的で美しいです。









ミャンマーは私にとって特別な意味のある国ですじゃ。
数年前に他界した私の母方のおじいちゃんは第2次世界大戦中、歩兵部隊としてミャンマーへ送られていました。そのおじいちゃんから生前、何度もミャンマーの話を聞いていました。当時、日本軍の戦況は芳しくなく、途中で食料供給も途切れると、ミャンマーのジャングルに駐屯していたおじいちゃんらには食べるものがなく、木の皮や昆虫で飢えをしのがなければならず、しかし現地のミャンマー人は日本兵らに対してとても親切で、時に鶏をさばいたり、米を炊いて分けてくれたりしたと。ミャンマーは人も自然もとても美しい国だから、いつかミャンマーを訪れてみなさい、と言われていました。私のいとこの名前はおじいちゃんが名づけたのですが、『ビルマの竪琴』を演じた中井貴一からとった「貴一」です。

おじいちゃんは生前、共に歩兵部隊として同じ町からアジア各地へ渡り、無事生還した同胞たちと共に、当時の記憶を冊子にまとめています。それには、日本からシンガポールを経由してタイまでたどり着き、そこから遥々ミャンマーへと徒歩で渡っていた長い旅路の描写があります。おじいちゃんと共に戦い、戦士した仲間の指を切り取ってマッチ箱に納め、日本に生還した際に、彼の家族に肩身として渡したことも書かれています。

そんなミャンマーへ、おじいちゃんの思いを胸にたどり着いたわけですが、祖父の話したとおり、ミャンマーは自然にあふれ、人々はまじめで親切。こちらでは保健省と一緒に仕事をしていたのですが、保健省のスタッフはみな、ディレクターレベルに至るまで、ミャンマー国内に蔓延る感染症の疫学状況や実際に行われている対策活動の進行状況などについて熟知しているし、会議もよくオーガナイズされていて、Impressiveでした。国外では、国の政治についてネガティブな報道ばかり聞くミャンマーですが、軍政の厳しい統制のおかげで治安は良いし、多民族国家がなんとかまとまっている。他民族国家には往々にして、それぞれのグループが独立する、或いは現政権を翻す機を見ている、という現状があるわけで、この軍事政権がなければ、今頃バラバラ・・・かもしれない?ミャンマーに限らず、多民族国家を統治するには、欧米のやり方(民主主義)をそのまま持ってきても、そう簡単には機能しないのかもしれないなぁ。と、車やタクシー移動の旅に、道中右に左に仏塔に囲まれながら、車内でこの国の未来について瞑想に耽るのでした。。。

2010年1月16日土曜日

柔と剛

私のボスは褒めるのがうまい。Bravo! Bravo!と。優しい人なのです。もちろん仕事も速い。だから、とても楽しく心地よく一緒に仕事ができています。

しかし、私にはもう一人影の(?)ボスがいます。日本人の大先輩。この先生、私の直属のボスより一回り年上で、とても切れ者。感染症対策に対して確固たる信念を持ち、どんな状況におかれても強く仕事を進めていかれる。話を聞いているだけでも、若造の私には勉強になることばかり。ただし・・・時に厳しすぎ、この私もへこみます。

でも昨日自分のおかれた状況を客観的に見てみたら、『柔』と『剛』という2種類の恩師を持てているという現状は、私の自己鍛錬にとって、とてもバランスが取れ、理想的なんではないかと、ふと気づいたのね。

やっぱ若いうちは、厳しい環境で鍛えらるからこそ学べることはたくさんあるわけで、でも厳しいばかりでは、やはり精神的に辛く、迷いも出るかもしれない。つぶれてしまうかもしれない。きっと、神様が敢えて私のために、こういう二重構造(?)を作ってくれたのだろうと。そんなわけで、厳しくされてもへこまず、頑張りまーす。いやいや、別にいじめられているわけではないので、ご心配なく(苦笑)。


ところで、今夜からミャンマーへ出張です。アジアに足をつけることが嬉しい。日本に近づくよ。こういうチャンスをくれるボスに感謝。

ミャンマー在住者によると、ミャンマーではウェブサイトやブログの内容は厳しくセンサーされていて、なぜか私のブログは開けないらしいです。何が引っかかるんだー。そんなわけで1週間ほど消えますが、ご心配なきよう。

いってきまーす。

2010年1月11日月曜日

あけましておめでたくございます。

って、遅いですね。。。
12月最後の週から、冬休みを取らなかったボスに(私にとっては)大き目の仕事を任せてもらっているので、「この仕事で勝負だー(誰と?)」と毎日自分と勝負で忙しく(苦笑)、更新滞っておりますが、私は元気です。

外は相変わらずの白銀で、最近は吹雪も多く、オフィスの外に1日止めといた車が夕方には雪だるまと化していて、その雪だるまのまま、家まで運転して帰ったりしています。そろり、そろりと。危ないよ、と思うでしょうが、先日は雪の中歩いて帰宅途中にスッテンコロリと顔面から着地し、泣きそうでした(腫れなかったけど、打ったほっぺは2週間ずっと痛かった)。貴重な日本製軽ーい折り畳み傘が大破しました。車の方が安全、かもしれない。



そんなあたくしですが、2010年の今年も、みなさま、宜しくお願いいたします。

ちなみに

Namさんは日本の某大学から魅力的なポストを提示いただき、ひとまずそのポストを受けることにして、正月2日に日本に帰国いたしました。

そして私はというと、今年の抱負の1つであるフランス語の向上(フランス語で仕事をする必要性にめちゃめちゃかられておりまして、お尻に火がつきました)に向け、この期に及んで、週2日夜のフランス語コースを正月早々から取り始め、毎日あれやこれやに追われていますが、頑張るんです。やっぱ、自分でお金払わないと、勉強しないのよね。

そんな私のただいまの机の惨状。。。読むべきものが多すぎて、たまに混乱しそうになっては、片っ端から計画を立て直す。大丈夫、我輩の辞書に不可能はにゃい。



でも今日は、ただいま同居中のしげちゃん差し入れの生牡蠣を食べたんですっ!!!!いやー、うまかったです。レモンかけて、懐かしの海の香り!幸せでした。ちなみに、某感染研からいらっしゃってた専門家の先生が「日本の牡蠣は最近やばいけど、こっちの牡蠣は全然ノロ(ウイルス)出てなくってきれいだって報告書も出てるし、うまいぞーっ」と叫んでいらっしゃるとおり、おなかにも安心です。



だから明日からも1週間頑張るぞー。おー。