2011年4月24日日曜日

おじいちゃん、ありがとう。

おじいちゃんが他界した。

金曜日からイースターホリデーの4日連休が始まった。今回はとくに旅行などせず、家で本読んだり、DVD見たり、勉強したりして、ゆっくり楽しもう、と決めていた。

昨日の朝、買い物に出る前に、MSNメッセージャーで弟から「聞いた?」って一言メッセージが入ってた。「なにを?」って聞いても弟はいない。
なんだろな~、と思いながら、特に気にせずに家を出て、1日中、あちこちを買い物して回った。休日のご馳走つくるために、魚を買いに行ったり、ナム氏が「庭をつくる」(ちなみに、うちはマンションです)と決めたので、ガーデニングショップへ行ったり。

夕方家に戻って、米を研ぎながら、弟からの「聞いた?」のメッセージのことをもう一度考えてた。そして、「はっ」と嫌な予感がした。急いでPCを開いた。そこには弟から、祖父が他界し、両親弟ともに鳥取に飛び、お通夜を済ませ、翌日の朝10時から葬式、納骨であると説明するメッセージがあった。

わたしとこのおじいちゃんの間には、深いつながりがあった。
私は、初孫であることもあり、誰よりも愛がってもらった。例え東京にいようが、海外にいようが、毎年鳥取に帰省しているのは、家族の中でも孫の中でも私くらいだ。私の両親がよく「おじいちゃんは、やじま あや応援団長」と言っていた。私に何かあると、じいちゃんがテレパシーを感じて、私に連絡してくることもあった。ナム氏と籍を入れることを最後の最後に父親から反対され(正確には、延期することを勧められ)、今世紀最大の大喧嘩をして、わたしが引き篭もったときには、誰よりも心配して、歳を取ってからは、どんなに誘っても鳥取から外に出ようとしなかったじいちゃんが、「いますぐに東京にいく」と出かけようとしてくれ、父親も説得してくれた。

よく父親が、わたしとじいちゃんの関係を見て「祖父母と孫っていうのは不思議なもんだ。親子とは比較にならない深い絆で結ばれてる」みたいなことを言った。本当にそうだと思った。

おじいちゃんは、数ヶ月前に家の階段から落っこちて、大怪我をした。それまで、「ここ数年、ちょっとぼけてきてる」と言われていたのが、その機会に検査をしたら、パーキンソン病であることが分かった。ぼけているのではなく、筋肉が上手く働かなかったんだ。それ以来、ちゃんと正しい薬を飲むようになって、さすがに歳が歳だから、ぴんぴんにはならないけれど、元気になったと聞いていた。私も心配で、ジュネーブからちょくちょく電話を入れていた。

ちょうど3日前に、別件で父親とメールをやり取りしていたときに、いつものように「ところで、おじいちゃんは元気にしてますか?」って聞いたら、父の返事は「鳥取の爺さんはクスリが効いて、量も増やせるようになったので元気です(パーキンソン病と気づかずボケていると言われていた頃よりはるかに元気になっているようです)。やはり色々調べて病院を変えたのが良かった。」だったので、安心してた。実際、1週間前に本人と電話で話したら、元気そうだったという。

2日前、弟とチャットしていて、私が「人生をあと10年と思って意思決定すると、本当に今やらなくちゃいけないのが何か、見えてくる(って某ブログで言ってた)」って言ったら、弟が「俺は、人生60歳まで(それ以降は第二の人生を楽しむ)、って思って考えたらさ、60歳まであと28年しかなくて、1年はあっという間だから、例えば1年に1回旅行いっても、もう28箇所にしか行けないんだよね」って言ってて。昨日の朝(今思えば、そのとき既に、おじいちゃんは他界してた)、ナム氏のその話をして「そうしたらさ、わたし、毎年1回日本帰国しても、おじいちゃんにはもう数回しか会えないね。だから、ちゃんと帰国しなくちゃ。」って話してたところ。

じいちゃんにもう会えない、顔を見られない、話ができない、という悲しみが津波のように押し寄せては引いた。これまでの人生で、おじいちゃんからたくさんの手紙をもらった。おじいちゃんがあんなに手紙を出した相手もわたしくらいだろうと思う。いや、私が唯一の文通相手だったかもしれない。でも、もうおじいちゃんから手紙を受け取ることはない。風呂でひとり泣いた。でも、普段から私とじいちゃんは離れていて、でもテレパシーで繋がっている、という安心感があるのは、じいちゃんが他界してからも変らない。むしろ、じいちゃんが、これからは鳥取じゃなくて、守護霊のように私の傍で守ってくれるんだ、そう思うことにした。This is life. Life goes on. また、敬虔な仏教徒であるおじいちゃんの影響で、私は輪廻転生を強く信じているので、次にまたおじいちゃんの魂が私の周りに生まれ変わってくる、という確信すらある。

スイスに持ってきた、おじいちゃんから譲り受けた本たち。



改めて中を覗くと、おじいちゃんの手書きのメッセージや線がびっしりで、泣けた。



でも、後悔は残った。もっと、おじいちゃんの若い頃の話、戦争の話、大学時代の話、いろいろ聞いて置けばよかった。一度くらいは那須へ連れてきてあげればよかった(そういう計画もあった)。もっとスイスの写真を送って、もっともっと手紙を書けばよかった。全ては後の祭り。

急いでチケットを取ったら、納骨に間に合うかも、と思って調べたけれど、全然間に合わなかった。急いでも、東京に到着するのが2日後、そこからさらに鳥取。なので帰国はあきらめた。納骨に間に合わないなら、むしろ、初盆にゆっくり帰ろう。海外に住む、というのはこういうことだ。緊急事態に、すぐに戻れないということを覚悟すること。どうしても1日以上のロスがでてしまう。

夜中まで待って、日本時間の朝6時半に弟の携帯に電話した。弟が説明してくれた。じいちゃんは、この3日間、おしゃべりしながら寝ちゃったりはしてたけど、特に変化はなく、昨日の夜中、寝ている間に逝っちゃったと。とても安らかに眠ってたと。本人は、自分がパーキンソン病だったことは知らない。最後まで平穏に生活して、苦しまずに逝った(らしい)、と聞いてほっとした。頼むから、そうであって。

弟に、形見をもらってきて、と頼んだ。おじいちゃんが大好きだった碁石をもらってきてやる、と言われた。「じゃ、碁石でピアスつくって、両耳につけてよっかな」2人で笑った。位牌でもいいよ、と言ったら、びびられた。おじいちゃんが所蔵している大量の書籍も、きっと誰も欲しがらないから、売るんなら私が引き取る、と言っといた。どこに所蔵するかが問題だけど。本当に大量だけど、おじいちゃんが読んできたものを、全部読みたい。

おじいちゃん、これまでありがとう。おじいちゃんのおかげで、今のわたしがあります。
おじいちゃんが傍で見ていると思って、これからますます、おじいちゃんの名に恥じぬよう、生きていきます。そして、今残っている人たちに対しては、後悔のないように生きる。それが、私の昨日の新たな決心。

2011年4月17日日曜日

Pray for Japanでハーフマラソン。

拝啓、みなさまご無沙汰しています。私は元気です。

今月は会議と発表に追われています。

我が部署は、現在17の熱帯病対策を扱っています。昨今では、諸所の対策の中でIntegrateできるところはできる限りIntegrateしよう、という動きに向かっているのですが、それでも根本的は伝播対策は、疾患(というより、原因となる寄生虫・病原体)によって異なるし、研究者も違うので、HIVエイズやらマラリアやらのように1つの部署で1つの疾患を扱っている多くの部署と違って、どうしても部局で企画するテクニカル会議の数が多くなります(っていうことに気づいてしまった今日この頃)。そんなテクニカル会議が今月は目白押し。そんでもって、私は疾患対策全てにCross-cuttingなタスクに携わっているので、結果として4つのテクニカル会議で発表するはめに 。゚(゚´Д`゚)゚。。

プレゼン作るのは嫌いじゃなく(発表するのは全然好きじゃないけど)、カオスとしてある様々な事実たちを、うまく美しい1つのストーリーに繋ぎ合わせて、聴衆の心にメッセージをびびっと響かせる、というタスクに、いつもExciteしてしまう質なので、目をしばしばさせつつ、急激に(なぜか右目だけの)視力を低下させつつ張り切った結果、プレゼンたちが思いがけず大ボスや、大大ボス(Director)に大賞賛された\(´∀`)丿。でも浮かれたのもつかの間、来週月曜の会議で発表してくるように部長命令が出た げげっ( ̄□ ̄;)!!

そんな中で、某会議をすーーーっと途中で逃げまして、週末にかけて飛行機でぴゅーっとプラハに飛びまして、参加してきました・・・プラハハーフマラソン Σ( ̄ε ̄;|||・・・。
「プレイフォージャパン」というメッセージつきの手作り日の丸をTシャツにつけて、完走しました。



実は、これは人生で2回目のハーフマラソンで、1回目(多摩川のチャリティーマラソン、数年前)は10キロ過ぎたところから、足の痛みと豆で全然走れず、ひたすら足を引きずってゴールにたどり着いた、という苦い苦い経験があったのですが、今回はちゃんと練習を重ね、数週間前に一度練習で20キロ近く走っていたこともあり、なんとか完走できました。といっても、本当に本当に辛かったけど!

普段、5キロジョギングするときは、MP3プレーヤーに、勉強を兼ねたオーディオブックを入れて聞きながら走っているのですが、今回も音楽なし、「人類と文明の進化」みたいな小難しいオーディオブックだけを入れていったら、15キロを超えると、もはや脳みそは働かず、全ては雑音にしか聞こえず、言ってること一切理解できず、大変苦しかったです。マラソンには、やっぱり音楽が良いようです。。。

それから、今回は給水所が5キロ置きにしかなく、しかし気温は24度くらいにまで上がっていたので、喉からからで死にそうでした。でも「被災地にいる人たちの苦しみはこんなんじゃないんだ。私の、喉からから、はあとちょっとで終わるんだから」と自分に言い聞かせてました。

やっとこさ給水所につくと、用意が遅くて、コップに全然まだ水が入ってなくて、まさに死にそうな人たちで奪い合いでした。人間というものは、飢餓状態になると、「譲り合い」の精神はなくなり(つまり理性働かず)、まずは自分の腹を満たす(=喉を潤す)ことが最優先となる、というのがよく分かりました。

そして最後の3キロは、冗談じゃなく、「I can do it, I can do it, I can ...」と念仏のように、アホのように、唱えていました。あ~、辛かった。でも、またやりたい。なんか、出産もこんな感じなのかな~とか想像しています。うーーー、痛い、でも、また産みたい!ってみんな言うよね・・・。

あと、途中にトイレが全然なかったので、男性人は川沿いを数メートル置きにたって、立ちしょんしてました(ずーっと川沿いを走ったの)。でも、男性人用に面白いトイレがあった。黒い蓋を開けて、そこに挿入するものを挿入して、用を足す(小のみ、もちろん)という。先輩が実践してくれましたが(苦笑)、これを街中で見るのはなんとも不思議なものでした。でも、いいアイデアかも。公衆便所のかわりに、どう?これ。



今回は、同じ機関で働く先輩たちとチームで走ったのですが(と、ナム氏も)、ロシア人の同僚から、「チェコと行ったら世界最高のビールと、豚のグリルでしょ!」と言われていたので、その教えに従いました。豚の丸焼きは本当に有名なようで、街中にもこんなん。漫画に出てくる原始人が骨を手で持ってかぶりついてる、みたいな肉を食べるのが、子供のときの夢でしたが、これがプラハで実現するとは夢にも思っていませんでした。



実際に食べたのはこれ。



マラソンの翌日、筋肉痛と疲労でロボットのように歩きながら(ナムは両足の大きな豆をかばいつつ・・・)、一応観光もしたのですが、これがまた辛かった・・・・。なぜなら、アホな私たちは、ホテルをチェックアウトしたあと、スーツケースを抱えて観光に出かけたのですが(泊まってたのがホテルじゃなくて、サービスアパートメントだったので、荷物を預けるレセプションがなかった)、プラハの観光地帯は9割石畳かつひたすら坂道なので、スーツケースゴロゴロするのが辛いこと、辛いこと。そんなんしてるのは、わしら2人だけで、みんなに見られて恥ずかしいし・・・。観光がいまいち楽しめませんでした。

プラハでは、スーツケースは預けて観光するように。しかも、できればマラソンの前に。







そうそう、プラハには、木でできた玩具がたくさんたくさん売っててね。
このカエル2兄弟。頭にバネがついてて、上からつるしたら、びよよよーんって伸びるんだけど、あ~たまらん可愛らしさ。



この鳥は、上から吊るして、おなかから垂れ下がってる紐をひっぱると、羽を優雅に羽ばたかせて飛ぶの!その優雅さがたまらんですよ。吊るす場所がないので、ナムがこれまた兄弟?夫婦?を上下に吊るしてみました。



そんなこんなで、辛くも充実感あふれるプラハの春、じゃなくて週末、を過ごすことができました。

ハーフマラソン、またやりたいです。いつかはフルにも挑戦でっきるっかな~。