金曜日からイースターホリデーの4日連休が始まった。今回はとくに旅行などせず、家で本読んだり、DVD見たり、勉強したりして、ゆっくり楽しもう、と決めていた。
昨日の朝、買い物に出る前に、MSNメッセージャーで弟から「聞いた?」って一言メッセージが入ってた。「なにを?」って聞いても弟はいない。
なんだろな~、と思いながら、特に気にせずに家を出て、1日中、あちこちを買い物して回った。休日のご馳走つくるために、魚を買いに行ったり、ナム氏が「庭をつくる」(ちなみに、うちはマンションです)と決めたので、ガーデニングショップへ行ったり。
夕方家に戻って、米を研ぎながら、弟からの「聞いた?」のメッセージのことをもう一度考えてた。そして、「はっ」と嫌な予感がした。急いでPCを開いた。そこには弟から、祖父が他界し、両親弟ともに鳥取に飛び、お通夜を済ませ、翌日の朝10時から葬式、納骨であると説明するメッセージがあった。
わたしとこのおじいちゃんの間には、深いつながりがあった。
私は、初孫であることもあり、誰よりも愛がってもらった。例え東京にいようが、海外にいようが、毎年鳥取に帰省しているのは、家族の中でも孫の中でも私くらいだ。私の両親がよく「おじいちゃんは、やじま あや応援団長」と言っていた。私に何かあると、じいちゃんがテレパシーを感じて、私に連絡してくることもあった。ナム氏と籍を入れることを最後の最後に父親から反対され(正確には、延期することを勧められ)、今世紀最大の大喧嘩をして、わたしが引き篭もったときには、誰よりも心配して、歳を取ってからは、どんなに誘っても鳥取から外に出ようとしなかったじいちゃんが、「いますぐに東京にいく」と出かけようとしてくれ、父親も説得してくれた。
よく父親が、わたしとじいちゃんの関係を見て「祖父母と孫っていうのは不思議なもんだ。親子とは比較にならない深い絆で結ばれてる」みたいなことを言った。本当にそうだと思った。
おじいちゃんは、数ヶ月前に家の階段から落っこちて、大怪我をした。それまで、「ここ数年、ちょっとぼけてきてる」と言われていたのが、その機会に検査をしたら、パーキンソン病であることが分かった。ぼけているのではなく、筋肉が上手く働かなかったんだ。それ以来、ちゃんと正しい薬を飲むようになって、さすがに歳が歳だから、ぴんぴんにはならないけれど、元気になったと聞いていた。私も心配で、ジュネーブからちょくちょく電話を入れていた。
ちょうど3日前に、別件で父親とメールをやり取りしていたときに、いつものように「ところで、おじいちゃんは元気にしてますか?」って聞いたら、父の返事は「鳥取の爺さんはクスリが効いて、量も増やせるようになったので元気です(パーキンソン病と気づかずボケていると言われていた頃よりはるかに元気になっているようです)。やはり色々調べて病院を変えたのが良かった。」だったので、安心してた。実際、1週間前に本人と電話で話したら、元気そうだったという。
2日前、弟とチャットしていて、私が「人生をあと10年と思って意思決定すると、本当に今やらなくちゃいけないのが何か、見えてくる(って某ブログで言ってた)」って言ったら、弟が「俺は、人生60歳まで(それ以降は第二の人生を楽しむ)、って思って考えたらさ、60歳まであと28年しかなくて、1年はあっという間だから、例えば1年に1回旅行いっても、もう28箇所にしか行けないんだよね」って言ってて。昨日の朝(今思えば、そのとき既に、おじいちゃんは他界してた)、ナム氏のその話をして「そうしたらさ、わたし、毎年1回日本帰国しても、おじいちゃんにはもう数回しか会えないね。だから、ちゃんと帰国しなくちゃ。」って話してたところ。
じいちゃんにもう会えない、顔を見られない、話ができない、という悲しみが津波のように押し寄せては引いた。これまでの人生で、おじいちゃんからたくさんの手紙をもらった。おじいちゃんがあんなに手紙を出した相手もわたしくらいだろうと思う。いや、私が唯一の文通相手だったかもしれない。でも、もうおじいちゃんから手紙を受け取ることはない。風呂でひとり泣いた。でも、普段から私とじいちゃんは離れていて、でもテレパシーで繋がっている、という安心感があるのは、じいちゃんが他界してからも変らない。むしろ、じいちゃんが、これからは鳥取じゃなくて、守護霊のように私の傍で守ってくれるんだ、そう思うことにした。This is life. Life goes on. また、敬虔な仏教徒であるおじいちゃんの影響で、私は輪廻転生を強く信じているので、次にまたおじいちゃんの魂が私の周りに生まれ変わってくる、という確信すらある。
スイスに持ってきた、おじいちゃんから譲り受けた本たち。
改めて中を覗くと、おじいちゃんの手書きのメッセージや線がびっしりで、泣けた。
でも、後悔は残った。もっと、おじいちゃんの若い頃の話、戦争の話、大学時代の話、いろいろ聞いて置けばよかった。一度くらいは那須へ連れてきてあげればよかった(そういう計画もあった)。もっとスイスの写真を送って、もっともっと手紙を書けばよかった。全ては後の祭り。
急いでチケットを取ったら、納骨に間に合うかも、と思って調べたけれど、全然間に合わなかった。急いでも、東京に到着するのが2日後、そこからさらに鳥取。なので帰国はあきらめた。納骨に間に合わないなら、むしろ、初盆にゆっくり帰ろう。海外に住む、というのはこういうことだ。緊急事態に、すぐに戻れないということを覚悟すること。どうしても1日以上のロスがでてしまう。
夜中まで待って、日本時間の朝6時半に弟の携帯に電話した。弟が説明してくれた。じいちゃんは、この3日間、おしゃべりしながら寝ちゃったりはしてたけど、特に変化はなく、昨日の夜中、寝ている間に逝っちゃったと。とても安らかに眠ってたと。本人は、自分がパーキンソン病だったことは知らない。最後まで平穏に生活して、苦しまずに逝った(らしい)、と聞いてほっとした。頼むから、そうであって。
弟に、形見をもらってきて、と頼んだ。おじいちゃんが大好きだった碁石をもらってきてやる、と言われた。「じゃ、碁石でピアスつくって、両耳につけてよっかな」2人で笑った。位牌でもいいよ、と言ったら、びびられた。おじいちゃんが所蔵している大量の書籍も、きっと誰も欲しがらないから、売るんなら私が引き取る、と言っといた。どこに所蔵するかが問題だけど。本当に大量だけど、おじいちゃんが読んできたものを、全部読みたい。
おじいちゃん、これまでありがとう。おじいちゃんのおかげで、今のわたしがあります。
おじいちゃんが傍で見ていると思って、これからますます、おじいちゃんの名に恥じぬよう、生きていきます。そして、今残っている人たちに対しては、後悔のないように生きる。それが、私の昨日の新たな決心。